時代と共に用途も変化してきた鍍金工。 港南で鍍金一筋50年のまち工場で その歴史と未来に触れた 代表取締役 関根儀雄 取締役 江口眞旦 取材:木村圭吾(横浜国立大学3年) |
やっと冬らしい寒さが訪れた、小雨まじりの朝。 日野の鎌倉街道から一つ路地を挟んだ住宅地に一軒、昔ながらの町工場といった趣を残す黄金メッキ工場様を訪れた。横浜市街地にほど近い黄金町からこの地に移ったのが昭和35年というから、かれこれ50年にもなろうかという月日が流れている。工場のあちこちから滲み出る“味わい”はそうした歳月の賜物であろう。昭和35年といえば、戦後復興の過渡のなかで、公害問題が影を落し始めた頃である。 規制が厳しくなった昨今では、ほとんどの同業者が姿を消した。高度経済成長期は、日本の産業を支えていた自動車関係の部品を扱う会社などを中心に50社を超える取引先から受注していたが、今では中小企業の多くが大企業の傘下に取り込まれた形態に変わってきており、また、家電に代表されるような価格競争による製造コスト削減が下請けの海外流失を招いたことで国内産業は元気を失くしてしまった。メッキ業も例外ではなく、今の主な取引先は電力産業関係及び精密機械メーカーなどだそうだ。電気を供給する際に発電所や変電所のシステム機器の部材を設計仕様に基づいてメッキするのである。 |
メッキの歴史についてお話下さる関根社長(右)と江口さん従業員はほとんどが港南区にお住まいの方だそうだ |
銅の部品にも美しい銀メッキ | 通りから見ても年季が伝わる昔なじみの佇まい |
「これがね、横浜のメッキ工場の始まりらしいんだよ。」そういって社長が奥から取り出したのは美しく装飾されたダムシンだった。大正の初期に、外国人向けのシガレットケースなどの装飾の手法の一つとしてこの地でメッキ工場が盛んになったという。 その後、産業化したのは車のバンパーであったり、車体や部品の防錆であったりと、我々がイメージするようなピカピカなメッキが主流となったからである。これらに共通しているのはメッキが装飾的な作用として使われていることである。 しかし、技術の発展は軽量細小を実現する。メッキは装飾だけではなくそれ自体で機能を与えるような技術へと成長していきたいとお二人は口を揃える。 港南の味わい深い町工場がさらなる歳月を重ね、歴史と共に今を支える技術を伝え続けることを期待したい。 |
横浜の鍍金のルーツといわれる 家庭に送電する際の変電所で 使われる部品に部分メッキを施す |
■取材後記 | |
関根社長様には、当工業会発足当時から運営にご尽力 頂いており、現在も、相談役として会の運営に携わってい ただいております。モノづくりの良さや奥深さを、これからも 伝えていただければと思います。 |
■会社概要 |
商号 株式会社黄金メッキ工場 代表 代表取締役 関根儀雄 所在地 横浜市港南区日野5-31-15 電話 045-843-8011 FAX:045-842-7182 創業 昭和35年1月 資本金 1,000万円 従業員 13名事業 内容 金属部品の精密表面処理 |
取材日:2007年3月 取材:木村 圭吾、写真:斉藤保 |